2009年09月28日

『武満徹の音楽』

ピーター・バートさん著、小野光子さん訳の『武満徹の音楽』を読む。

原著は2001年、この訳本も2006年に出版されたので、全然新刊ではないんですが、腰を据えて取り組もうと思っている間にもう2009年も終盤戦に入ってました。ちょっと遠出する用事があったので、電車の中で一気読み。

武満氏の音楽の「日本的」な要素とは何なのか。その問いに、西洋の音楽学者(この本の作者ね)が答えるためにとった方針は、あくまで西洋の楽曲分析の方法を徹底して行い、そのことによって分析し尽くされない、あるいは分析不能な要素こそが、武満にとっての「日本的な」要素なのではないかと考えるというもの。なんか「ロンテツ」みたいな論の運びですが。

ただ、この方針はあまりにリスキー。バートさんは間違いなく既存の武満研究の中でも最多レベルの作品の譜面にあたって、彼の音楽の核心に迫る部分を過不足なく抜き出し分析しているんですよ。だから「武満音楽の特徴を探る」だったら、この著作は間違いなく最上の出来。ただ、分析不能な部分が「武満の日本らしさ」だとする方針をふまえると、本当にこれだけの量の分析で分析できるところはし尽くしたのか、とやはり疑問に思ってしまう。

いや、正確に言い直しましょう。量の問題ではないのです。こういう否定神学的な問題構成をとった場合、なされる「分析」の質が変わってくるはずなのです。それこそ「ロンテツ」のような、もっと香具師的なやり方で「分析」しないと、いつまで経っても「分析不能なもの」に到達できない。

ずいぶんひねりすぎたコメントだと思うでしょ?でもどうしても気になるのは、バートさんが最後に「分析不能なもの」の記述に戻ってくる際に、それまでの分析結果の中の隙間を割と素朴にオリエンタリスティックな言葉で埋めてしまうからなんです。大体「西洋には分析不能なもの」って考え方自体がいたくノスタルジックでオリエンタリスティックじゃないですか。だから、この問題構成に関しては(すでに日本の音楽学者がさんざん言ってるとは思いますが)、やはりなんらかの批判が必要だと思うんだよね。

一応確言しておくと、各論はとても魅力的なんです。メシアンから継承した旋法、旋法を縦に重ねた和声の作り方、和声がいくつかの「層」からなっていて、それらが独立に「移調」される運動性とか、こうして書いただけでわくわくしてくるくらい(僕だけ?)。だからこそ、全体のパッケージはもう少し緻密にした方がいいと思うんだけどなあ。

分析の質は相当高いので、音楽学的には一級の労作だとは思うんだけれど、僕は音楽学者じゃないんで(そしてこういった問題の場合音楽学者じゃないことに意味があると思うので)、ちょっと批判的に書いてみました。でも本当にとても魅力的な本です。楢崎洋子さんの『武満徹と三善晃の作曲技法』と合わせ読みしてもいいですね。オススメ。
posted by △ at 09:40| Comment(0) | TrackBack(0) | みみをすます | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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