2007年07月05日

『ウェブ社会の思想:〈遍在する私〉をどう生きるか』

鈴木謙介さんの『ウェブ社会の思想:〈遍在する私〉をどう生きるか』を読む。

あらゆる人・モノがネットワークで情報を送りあう環境が普及した社会においては、「わたし」に関する情報の蓄積に「わたし」自身が溺れ、「情報としてのわたし」が「わたし」に先回りしてしまう。その時「わたし」は、「情報としてのわたし」が指し示す「そのようであるしかないわたし」という「宿命」を受け入れる他ない…。

このいささか絶望的なウェブ社会のありようの中にうがたれた、希望の「穴」を探ること。それがこの本の主題です。そしてその答えは、どれほど私たちが「島宇宙化」したくとも、常に他者と触れてしまう=つまり「宿命」の中に閉じては生きられないという、別種の「宿命」によって指し示されます。いわば他者そのものが希望の「穴」になるわけですね。

この種の結論、僕は間違っているとは思いません。結論のところでレヴィナスが出てくるのも、既視感があると言えばあるけれども、それはそれでかまわない。でも、僕のような「ウェブ社会」に詳しくない人間が読んでも納得できるということは、逆に言えば鈴木さんの「処方箋」がどのような意味で「ウェブ社会」に対して処方されたものだかわからない、ということでもあるのです。こう言い換えてもよいかな。バーリンやリベラル/コミュニタリアン論争がウィキペディア/グーグルや「セカイ系」にすんなりと接続されてしまう、その手つきが鮮やかだからこそ、今ここで進行している論述がフォローしている歴史的な幅がどのくらいに設定されているのかわからない。ゼロゼロ年代に設定されるかと思えば「近代社会一般」が射程に入っていそうな気もするわけです。歴史の厚みを深さに置き換えると(比喩がへたくそですみません)、水面を泳いでいくには最適なルートだけれども、水底に足をついて歩くには適していない気がする。

もっとも、鈴木さん自身がスピノザやニーチェ、ハイデッガーについてはまた今度書きます、情報化の話は「古くて新しい」ゆえに「ウェブ社会」の問題の射程は広い、と言っているので、読み手としては「ウェブ社会」に限定せずに読めばいいのかもしれません。でも、ウェブ社会の前には〈遍在する私〉は存在しなかったんですよね?とだとすると、ここで急に時代的に急に大風呂敷を広げるのも、また逆の意味で理解しにくいところではあるのだけれど…。ま、絡め手から読もうとして僕の批判が妙に自家中毒しているのはわかっているのですが。
posted by △ at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | かんがえをかんがえる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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