2007年07月05日

『右翼と左翼はどうちがう?』

雨宮処凛さんの『右翼と左翼はどうちがう?』を読む。河出書房新社から出ている、「14歳の世渡り術」の第一期の作品です。まあ、理論社の「よりみちパン!セ」シリーズと似たようなもんですな(苦笑)。

雨宮さんに関してはもはや説明も必要ないでしょう。いまや「右翼で左翼」な人の代表と言ってもいいくらいメジャな人です。はじめて文章を読みましたが、主語と述語がねじれていたり、文章がぶつ切りだったりして、まああんまり得意ではないです、僕は(苦笑)。

結局雨宮さんが書いているのは、「右翼も左翼もこの社会を変えたいという気持ちを持っている点では同じ」という話。右翼でも左翼でもいいからとりあえず自分で考えて行動しろよ、とアジってるわけです。

面白かったのは右翼と左翼の活動家へのインタビュー。なんというか、活動している人(右翼も左翼もどっちも)の自尊心って、活動の内容というよりも活動していることそのもので成り立っているんだなあ、と思いました。そういうの、僕は苦手なんですよね…武勇伝はオリラジだけにしておいて、って感じ。

と辛口ですが、多分それは僕がすでに「社会を変えたい」という青い夢想を抱いているからでしょう。要はアジビラが「誤配」されちゃったってことになるんでしょうね…そもそも僕は14歳じゃないし。
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『高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選』

岩間輝生さん、坂口浩一さん、佐藤和夫さん編の『高校生のための現代思想エッセンス ちくま評論選』を読む。高校の先生方が現代の思想界(なのか?)を代表する方々の評論を取り上げ、まさに国語の教科書のように「〜〜とはどのようなことか」とか欄外に問題を作って一緒に載せてしまった、なんとも「お勉強」な本。

なのですが、収録されている評論が活きのいいものであり、解説も結構的確なので、読んでいて面白かった。解答が別冊となっているのも、高校を卒業して何年も経った僕にはチャート式みたいでむしろ懐かしい。

とりあえず誰の評論が載っているかを列挙しておきます。
堀江敏幸、黒崎政男、西垣通、斉藤環、斎藤美奈子、吉見俊哉、多木浩二、内田樹、大橋洋一、川田順造、野矢茂樹、大澤真幸、茂木健一郎、福井憲彦、小浜逸郎、永井均、小池昌代、上野千鶴子、尼ヶ崎彬、竹田青嗣、前田愛、若林幹夫、石原吉郎、丸山真男、藤田省三、西谷修、北田暁大、東浩紀、見田宗介、岡真理、市村弘正、大江健三郎(敬称略)

見よ、この呉越同舟ぶり、もとい豪華絢爛ぶり。これだけの人の文章を一冊で読めるというだけでも、いい本だと思いますよ、僕は。
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2007年06月17日

『かけがえのない、大したことのない私』

田中美津さんの『かけがえのない、大したことのない私』を読む。「胸のすくような」というのはこういう本のためにある形容だと思える、大変に爽快な本でした。リブを闘ってきた(そして今も闘っている)第一人者の、あけっぴろげでさばさばした語り口が楽しめる本です。リブに関係のある人もない人も、このすっきりとした生き方に触れるのはすごくよい経験になると思う。「選ばれない私は美しい」とか至言もいっぱい。大変ストレートな『オニババ化する女たち』批判もぜひ読んで欲しい。オススメの本です。
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2007年04月23日

『身体をめぐるレッスン4 交錯する身体』

市野川容孝さん責任編集の『身体をめぐるレッスン4 交錯する身体』を読む。この本のテーマは親密性(インティマシー)。私たちが特定の身体に特定の意味づけをしてしまう、その個別性に着目したさまざまな論考が収められています。

ダントツで面白いのは野田論文。同性愛がまさに同「性愛」として立ち上がるプロセスを歴史社会学的に丁寧に追うことで、現在の同性婚をめぐる論議などがどのような磁場の上に成り立っているのかを明らかにしています。僕自身の研究テーマに関わるから面白い、というだけでなく、「歴史社会学とはかくあるべし」という理想の一つの完成型としても面白い。書き手が自分のやっていることの射程の長さをちゃんとわかっている、というのがよくわかる論文でした。こんな論文が書けるようになりたい(切実)。

その他、朝霧さん&秋山さん&市野川さんの鼎談も読み応えがあります。市野川さんがしゃべりすぎですが(苦笑)。オススメ。
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2007年04月22日

『モナ・リザは妊娠中?』

中川素子さんの『モナ・リザは妊娠中?』を読む。古今東西の妊娠に関する美術作品を取り上げ、論じた本です。

第8章から第14章にかけてが面白かった。これはその章で取り上げられている美術作品が面白いからだと思います。特に松井冬子さんなんかは、名前だけは知っていたけれど作品は見たことがなかったので、作品のカラー画像が収録されていてラッキーでした。素敵な作品だなあ。実物を見てみたい。

フェミニズムに関連する本なのに「レズ」という表現が出てきたり、やや脇が甘い感じもあるんですが、取り上げる美術作品が面白いので読んでみていただけたら、と思います。
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2007年04月20日

『身体をめぐるレッスン3 脈打つ身体』

石川准さん責任編集の『身体をめぐるレッスン3 脈打つ身体』を読む。身体がマテリアルであることをテーマにした、さまざまな論考が収められています。ゴリゴリの論文ではない、読みやすい文章がたくさん収録されているので、素直に読み物として面白い。

個人的な感想ですが、最後の2つの文章(ニキ・リンコさんと橋本みさおさんのもの)がやっぱり面白かった。ニキさんの本は以前に読んだことがあったのですが、ここでもやっぱり自身の経験をユニークに語るその口調は同じ。この軽妙な感じ、好きだなあ。橋本さんも、「無理をしている」明るさではなく、本当に淡々と面白く日常を書くのがうまい。二人とも、稀代の名エッセイストと言えると思います。「読んで勉強しなきゃ」と思わず、肩肘はらずに読めるのが楽しい。

シリーズの他の巻も、今後読んでいきます。
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『郊外の社会学』

若林幹夫さんの『郊外の社会学』を読む。都市論の大家(?)の待望の郊外論です。

詳しい中身は読んでいただくとして、僕が一読して大きく思ったのは、若林さんは「郊外を上から目線で気持ち悪がる人たち」に嫌な感じを抱いているんだな、ということ。そこに人が住んでいて、生活を営んでいることの重さを考えたら、「画一的な郊外は気持ち悪い」と言っているのではダメなのだ、という主張を僕は受け取りました。全くその通りだと思う。郊外の社会学がぐるっとひっくり返って金持ちの貧乏嫌いの表明になってしまう今、この主張の意義はきちんと確認されるべき点だと思います。

もう一つ。僕は以前郊外の社会学系の本を読んで、自分の住んでいる地域が第四山の手ですらないことに気づいて愕然としたのですが、どうやら僕の住んでいる地域は「TOKIO Intelligent Bay」に含まれるそうです。これ、喜んでいいんですか(苦笑)?
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2007年03月15日

『仕事とセックスのあいだ』

玄田有史さん、斎藤珠里さんの『仕事とセックスのあいだ』を読む。仕事とセックスレスの関係について定量的に論じる玄田さんの文章と、フランスの事例を中心にセックスレスへの対策を考える斎藤さんの文章が交互に並べられています。斎藤さんはもともと雑誌『アエラ』の編集者で、女性のセックスに関する記事を執拗に追い続けている人です。

全体的に見て、玄田さんの文章と斎藤さんの文章はあまり関連がありません(なんていうと怒られるか)。玄田パートだけ続けて、斎藤パートだけ続けて読むと面白いと思います。玄田さんの方は「職場でのストレスとセックスレスには関係がある」という話で、斎藤さんの方は「フランスってもっとちゃんとセックスレスに取り組んでるよ」という話。個人的には、細かいエピソードが面白い斎藤パートの方が読み応えがあると感じました。骨盤底リハビリとか、大事だと思うなあ。

それにしても未だに「性について語ることに照れがある」と何へのアリバイなのか何度も言う玄田さん、なんだかなあ。いちいちその程度(だって性行為についてじゃなくて性行為がないことについての文章なんですから)で照れるなよ、って思っちゃうんですが。
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2007年03月13日

『コドモであり続けるためのスキル』

貴戸理恵さんの『コドモであり続けるためのスキル』を読む。生きにくさを感じるコドモたちのために、コドモであり続けることを考え抜いた貴戸さんがやさしく語った(正確には書いた)本。よく読むと、「格差」「ジェンダー」「社会運動」に関する日本で最も易しい解説書にもなっています。こういう、よい意味で人々を「そそのかそう」とする本、僕は好きです。オススメ。この本、僕が小中学生の頃に読めたらよかったのに。

その一方で、またしても「べてるの家」の話が出てきたので、やっぱり同じところにひっかかってしまったのも事実。はい、いつもどおり「当事者性」の問題です。「べてるの家」の当事者研究は、「自分のことは自分はわからない」からこそ必要とされているもののはず。それなのに、時々「自分のことは自分が一番よくわかっている」という結論に「べてるの家」の実践が接続される(どころか論拠にされる)のです。貴戸さんがそうだとは言いませんが、ここにはもっときちんと考えられるべき理論的な問題があるのに、それが奇妙に見過ごされている。「べてるの家」のあり方をもっと理論的に受け止めるなら、「何が誰にとっての問題」かから拙速に「社会運動」や「権利擁護」に行くのではなく、「誰が何を知っている(ことにされている)のか」に戻って粘り強く考える必要があるはずなのですが(その意味でアカーの人々は少なくともこの点に関しては最も理論的に考えていたとぼくは思います)。

とはいえこの本、オススメです。大学に入った瞬間に「格差がある」ことを「常識」と思ってしまう、奇妙に鈍磨した精神には特に、ね。
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『東京から考える』

東浩紀さん、北田暁大さんの『東京から考える』を読む。対談本ウォッチャーの僕の出番ですな(笑)。

東氏、北田氏がそれぞれが東京という都市を生きてきたその実感に即しながら、都市・郊外・格差・個性、ネイションについて考えるという試み。普段は多分に理論的な二人があえて実感に即してえいやっ!と語るところが面白い。しかし、都市論っていうのはそういう風に語らないと意味がないところがあって(だってそうでないと、地図を見ただけで都市論が語れるってことになっちゃいますよ)、その意味で対談という形式が方法論的にもっとも適切な題材を扱った本だと思います。おお、対談本ウォッチャーらしい分析だ(そうか?)。

とはいえ、やっぱりこの二人の対談だけあって、どうしても理論的に議論を浮上させたい欲求がそこかしこに見られます。特に北田さんは、積極的に北田/東の差異を整理しようとします。特にそれがローティをめぐる議論になってしまうところが、この二人らしいといえば二人らしい。ただ読んでると忘れてしまうんですが、東京の話をしていて最後にローティの話になってしまうその流れ自体は、取り出してみるとやっぱりずいぶん奇妙です。

で、この「東京という都市に関する実感」から「ローティ/ロールズをめぐる共感可能性の是非に関する議論」への流れの結節点にあるのが、「ジャスコ的」あるいは「国道16号線的」という表現です。逆に言えば、この「ジャスコ的」「国道16号線」という表現に説得されなければ、この本の内容自体が相当に浮ついたものに感じられてしまうと思います。対談の中でだんだんとこの表現に輪郭が与えられていくので、僕のような人間は簡単に説得されてしまうのですが、都市論をちゃんと知っている人ならどう思うかなあ。専門家の意見を聞いてみたい。多分他の用語でもう少し厳密に指し示すこともできるのだと思いますが。
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2007年02月27日

『色男の研究』

ヨコタ村上孝之さんの『色男の研究』を戯れに読んでみました。思いのほか面白かった。

日本中世(でいいのか?)の文学作品などに見られる色男像を、現在の男性ファッション誌の話題なども絡めながら通時的かつ共時的に論じた本です。個人的には文献を詳細に追いながら色男の歴史を描く部分が面白かった。色男は遊郭の女に惚れさせる男だとか(ちょっと乱暴な要約かも)、女性的であることが色男の条件であるとか(これも乱暴か)、押さえておいて損はない知識は満遍なくおさえてあります。同性愛と男色に関する補足もちゃんとあるしね。ということで、この分野でのとっつきやすい基礎的な文献として広く読まれるんじゃないかな。問題は「この分野」ってのの裾野がどれだけ広いか、ってところですが。
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『喪男の哲学史』

本田透さんの『喪男の哲学史』を読む。喪男はここでは「モダン」と読みます。

いや、これ、面白かったです。西洋哲学史を喪男=もてない男のルサンチマンの発露として読み替えてしまうという試み。こういう風に言ってよければ、クィアなんですな、思いのほか。

全体を貫くモテ対非モテの構図を拙速に三次元対二次元につなげたり、その図式で全てを読むためにプラトン主義が妙に神格化されたりして(本田さんには「プラトン主義」のイデアが見えたのでしょう…)、危なっかしいなあと思うところもあります。喪男に肩入れしすぎてはからずも女性が哲学上の「主体」としては排除されているなどの問題もあります。でも、それを脇に置いておけばこの一貫した感じは魅力的。少なくとも、表面をなぞっただけの「哲学史」よりはずっと読み物として面白いです。ある意味おすすめ。
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『現代思想入門』

仲正昌樹さん、清家竜介さん、藤本一勇さん、北田暁大さん、毛利嘉孝さん著の『現代思想入門』を読む。直球のタイトルですね(笑)。各著者がそれぞれ「概論」「フランクフルト学派」「正義論」「リベラリズム」「カルチュラルスタディーズ」に関して戦後の思想の流れをレビューし、代表的な思想家の思想を短くまとめてくれています。ブックガイドも載っているので、確かに入門書としては最適。個人的には「フランクフルト学派」の章が勉強になりました。そういえば、という感じなのですが卒論を書いているときにホネットを読むように教師にすすめられたなあ(遠い目)。一応読んだのだが意味がわからなかった。今読めば多分もう少しわかるかな。

ということで意地でも中身については書いてやらない(苦笑)。簡単ですから読んでください。一番の謎はこの本がPHP研究所から出版されていることだな。
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2007年02月21日

『右翼と左翼』

浅羽通明さんの『右翼と左翼』を読む。右翼と左翼ってそもそも何よ?と思ってしまう僕のような初学者にもわかりやすくその違いを説明してくれる、大変簡潔かつ丁寧な本。と同時に、現在日本における左・右のありようまでしっかり記述してくれるので、思いのほか包括的で役に立つ一冊です。

とりわけ秀逸なのは、フランス革命の歴史を紐解きながら左右の「起源」を探る第2章。67ページの図などはそのまま世界史の勉強にも役立つのではないか。と思っていたらあとがきを読んで納得。「世界史を、たとえ高校教科書程度であれ学べば、何がわかるようになるのか。本書は図らずもその解答を提示してはいないでしょうか」(p.253)。大学で専門的に学ばずともここまで知っておければ、というラインが網羅されているとすれば、高校の授業も捨てたもんじゃないのではないでしょうか。
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2007年02月16日

『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か

永井均さんの『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』を読む。永井さんの本をこのブログで紹介するのは初めてだと思いますが、実は僕、彼の授業を受けたことがあるんです。ものすごく忙しい時期だったので、授業中はいつも寝ちゃってましたけど(汗)。

さて、この本は永井さんが西田氏の著作を読み解きながらあくまで永井さん自身の哲学を行ったものです。永井さんはいつもそういうスタンスですね。でも、それが功を奏して、西田哲学に妙な宗教性のイメージを勝手に付与していた僕は西田哲学の強靭な論理性にじかに触れることができました(少なくともできたような気がします)。

あと、西田哲学をさらっと理解できるヒントがあるとしたら、それは日本語の「は」という助詞に関する学問的知識ではないか、とふと思いました。言うまでもなく、日本語の「は」とは、主語を受ける助詞ではなく、その文の内容がどのような「場所」においてのものなのかを示す助詞ですからね。ま、「場所」つながりって言ってしまえばゆるくみえなくもないのですが。
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『性と暴力のアメリカ』

鈴木透さんの『性と暴力のアメリカ』を読む。暴発国家アメリカがなぜあんなになっちゃったのかを歴史を紐解きながら解き明かしていく書物です。アメリカの人々を捕らえてやまない性と暴力の緊密な結びつきからアメリカの特異性を解き明かすさまは、非常に説得的で大変面白く読めました。

さらにこの本が面白い理由としては、著者自身が国際政治学というよりアメリカ文学の研究を専門とする方なので、人文系の議論をきちんと消化した上で「アメリカの精神分析」がなされている点が挙げられます。その意味で、国際政治学の分野での議論よりも歴史に対する洞察が「深い」のです(もちろん、国際政治の側から見ることで見えてくる別のものもあるでしょうから、国際政治学が劣っているとは思いませんが)。この辺がこの書物が読み物として僕のような初心者にも面白く読める大事な理由だと思います。

もちろん性に関する議論を細かく取り出せば言いたいことがある部分もありますが、それはおいておいて、お薦めです。
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2007年02月08日

『搾取される若者たち』

阿部真大さんの『搾取される若者たち』を読む。バイク便ライダーとしての経験(参与観察)から「好きなことを職業にする」若者が構造的にワーカホリックになっていくプロセスをわかりやすく示した素晴らしい本です。そんなに厚くなく、何が重要な要因として利いているかを簡潔に示しているので、すんなり理解できます。この「要因を簡潔に示す」のができるのは自分が何をやっているかをちゃんと分かっている証拠で、僕のように「あれもこれも要因です」と書いてお茶を濁す人間からすれば、あやかりたいです(あやかってる暇があったらそこから学べ、という話ですが)。

この論文の主要テーマ、「労働」についてのコメントは僕以外の人がたくさんやっているでしょうから、ここでは全く別のことについて。僕がこの本のことを知った時にまっさきに思ったのは、「自分もバイク便ライダーをやっているのにバイク便ライダーが搾取されているなんて言って、この人は賢いバイク便ライダーから猛反論されないのだろうか」というもの。はい、言うまでもなく修士論文のインタビューの際に実際に僕がこうなっちゃったんですが。阿部さんが猛反論されないのには一つ重要な要因があると思います。まず間違っている(と僕が思う)方を書いて、それからその要因を書いてみましょう。

×阿部さんが現在はバイク便ライダーをしていない
これが要因となる悪いほうのパターンは、「書いちゃったもん勝ち」であとはバイク便の仕事をやめれば、反論を受け付けなくて済む、ということ。これ、調査倫理上NGです、少なくとも僕は認めません。ただこんなに悪質ではないパターンとして、今はバイク便ライダーではないからバイク便ライダーのことを「よく書く」必要がない、という利点はあります。逆に「当事者」といった形で自己を規定してしまうと、「熟考した結果この人たちのやってることはやっぱり批判すべきだ」と思ったときに、それが書きにくくなると思います(うーん、自分のことを言っている気がしてきました、やっぱり)。ただし、阿部さんの立ち位置は、こんなに冷たい感じではないです。そしておそらくその理由が、

○阿部さんは時給ライダーと歩合制ライダーのうち、前者に強くシンパシーを抱いている
これが僕からすれば阿部さんのうまいところ。バイクに対する愛情を持ち、その意味で強く「内側の人間」であるにもかかわらず、非常に「濃い」バイク便ライダーのありようには違和感を覚えるという時給ライダーのありようを実践することによって、阿部さんがバイク便ライダーをとりまくしくみに共感的でありながらも批判的なポジションをフィールドの中でとることが可能になっている。これは対象となるバイク便のしくみ、阿部さんの感性、そして阿部さんの学問的嗅覚がうまく重なってできた、学問的にはかなり「おいしい」ポジションだと思います。阿部さんが単に研究対象としてバイク便を見ている戦略家ではなく、ある意味でそこに愛情を持ってもいる人だからからこそ、このような立ち位置を確保できた。このことに対し僕は、単なる「うまくやったな」という評価を超えて、大変うらやましいものを感じます。自身がその中にいるその場を批判することの現時点での最適解がここにあると言ってもいいのではないでしょうか。この場所を見つけた時点で、阿部さんの研究はすでに9割以上成功していただろうな、と僕はふと思いました。
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『ゲーデルと20世紀の論理学2 完全性定理とモデル理論』

田中一之さん編の『ゲーデルと20世紀の論理学2 完全性定理とモデル理論』を読む。

第1巻のエントリで「実際の各論が掲載された第2巻以降に期待」などと書いてしまいましたが、2巻は門外漢にはなかなかにきついな内容でした。つまり、記号がいっぱい(汗)。ただ、それでもだいぶ枝葉の部分を切り落としてくれていて、分からないなりにも道筋が見えた感じです(実はゲーデルの完全性定理の証明において、この「枝葉を落としてしまう」方法=タブロー法が結構重要な役割を果たしているのですが)。比喩的な言い方をするならば、富士山を登るルートを、実際に登って確かめるのではなくてヘリコプターで上空から追って観察した感じ。それでもただヘリコプターで頂上まで運んでもらったのではなくて、きちんと地上ルートを追って観察しながら頂上までたどり着いたので、わかっていないならわかっていないなりの達成感があったりして曲者なんですが。

論理学の面白いところは、その専門用語が他の分野に比べて理解しやすいところ(僕の勝手な思い込みかもしれませんが)。専門的だからもちろん歯が立たないのは他の分野と一緒なのですが、少し我慢して丁寧に読めばちゃんとわかることしか書いてないんです(論理学ですから当たり前ですが)。ということで、論理学に不得手な僕のような人間でも、なんとか読めます。チャレンジしてみてはいかがでしょう?
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2007年02月05日

『倫理学(一)』

和辻哲郎さん(「さん」って…苦笑)の『倫理学(一)』を読む。『倫理学』が岩波文庫から熊野純彦さんの解説付きで登場、ということで読んでみました。まあ、ミーハーなだけですな(もちろん和辻さんにではなく熊野さんに)。

読んでみてびっくりしたのですが、思いのほかこれは「社会学批判」の書であります。「人間とは「世の中」であるとともにその世の中における「人」である」(p.28)とは、端的に言えば個人か社会のどちらかのみを準拠点に「倫理」を、あるいは「社会の論理」を語ってしまうことに対する強い抵抗の表明ではないでしょうか。

とはいえ、(和辻のように「日本」を思想的よりどころとしなくても)すぐれた社会学者は、この問題にずっと前から気づいていたのも事実。「方法論的個人主義」と「方法論的集団主義」に「方法論的」という形容がつくのは、個人と集団のどちらかが社会の謂いではない、ということへの気づきに基づいていますからね。しかし、そこで和辻のようにこの両者の「二重体」という表現を使ってどこまで行けるのか。和辻の倫理学を全くもって「社会学的に」誤読してしまうのなら、多分そこにこそ論点があるように思います。

それにしても今回は一段と浮ついた話になってしまっているなあ。
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2007年01月28日

『安心して絶望できる人生』

向谷地生良さん、浦河べてるの家著の『安心して絶望できる人生』を読む。

相変わらずべてるの家のみなさんの人生が笑える、面白い。真面目なようでいて意外と素直に笑える本です、と紹介しておきます。

その上で、「当事者研究」について書いておきます(卒論のテーマですし)。べてるの家における「当事者研究」のあり方で僕が重要だと思うのは「自分のことは自分ひとりで決めない」「研究することによって自分を見つめ直す」というもの。

前半に関しては「自分で決める、他の人が支える」と似ているものの決定的に主張が異なっています。決定の後に他人を巻き込むのではなく、決定そのものに他人を巻き込むことが重要だ、というのは、今流行の「自己責任論」を避けるためにも、もっとその理論的含意を詰めてもよい論点だと思います。「私が決めて何が悪い!」というあの歯切れのよい(その実逆説的に強者の論理っぽい)主張では汲み取れないものがここにはあると僕は考えます。

後者に関しては、割と当たり前のように見えてこれまた重要な論点をはらんでいます。「当事者性」を言う人たちは、「自分のことは自分が一番知っている」と主張したりもするのですが、それに対して(確か浅田彰氏が言っていたと思いますが)「自分のことは自分が一番わからない」という主張も十分理解可能なわけです。だから精神分析やテキスト分析へ、とはもちろん僕は(社会科学をやっている身として)言いませんが、それにしたって「自分について自分は知らない」というのは、「当事者性」の議論に関しては少なくとも繰り返し吟味されるべき重要な論点だと思うのです。誰がよりよく知っているか、が誰が権力を持っているか、とつながることが往々にしてあるゆえ、「私が一番知っている」との主張が意義を持つことは認めますが、それにしたって「当事者研究」や「当事者学」は、当事者が自分について知らないことがあるからゆえのものであるのは自明なので(でなければ「研究」する必要なんてない、最初から全て知っているんですから)、本当はもっと微細なところで知っている/知っていないをめぐる議論がなされるべきなのです。

ということで、「当事者研究」や「当事者学」という言葉に関して、本当はまだまだ詰められるべき論点があるはずだ、ということを気づかされる本でした。
posted by △ at 10:34| Comment(2) | TrackBack(0) | かんがえをかんがえる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする