2007年01月28日

『ゲーデルと20世紀の論理学1 ゲーデルの20世紀』

田中一之さん編の『ゲーデルと20世紀の論理学1 ゲーデルの20世紀』を読む。全4巻シリーズの第一巻です。第2巻から4巻はゲーデルの三大定理を源流とするモデル理論、証明論、集合論の中身に入っていくようですが、この第1巻は日本のゲーデル受容史を扱ったものです。ある意味随想集のようでもあります。

その中で、飯田論文(論文と言いうるのはこの文章くらいかも)は大変分かりやすい筆致で、ゲーデルの業績が規約主義と機械論に対してどのような影響を与えたかを論じるもので、大変興味深いものでした。特に機械論に関しては、論理学それ自体に興味のない人にでも面白い指摘をしているなあ、と思われます。ゲーデルの不完全性定理をもって人間の機械に対する優位を論じることが本当にできるのか(いやできない)という点は、一種の「教養」として知っておいても面白いと思います。

ということで、論理学は不得手ですが、実際の各論が掲載された第2巻以降に期待です。
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2007年01月25日

『ダメな議論』

飯田泰之さんの『ダメな議論』を読む。常識によりかからず、論理に基づいて議論を評価しよう、という趣旨にもとづき、いくつかの判断基準でもって世の言説(筆者の用語法では言論活動)を切っていきます。

読者が常識によりかかろうとする瞬間にちょっと待て!と突っ込みを入れる精密さはさすが。経済政策を専門としているだけあって、代理指標や変数に関する議論も初歩的なところをちゃんと押さえておいてくれてあり、読みやすい本に仕上がっています。

ふと思ったのですが、同じちくま新書ですし、本書を理論編、『子どもが減って何が悪いか!』を実践編として読むと面白いかもしれません。
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2007年01月17日

『女は見た目が10割』

鈴木由加里さんの『女は見た目が10割』を読む。

男に媚を売ってるわけじゃない、単に自分が楽しいからやってるだけだ、でも「キレイになる」のってちょっとしんどい。そんな、おそらく多くの女性が思うであろうことを、丁寧に実態を踏まえながら記述していく本。いい意味で新書らしい、わかりやすい本でした。化粧の話とかは、やっぱり化粧しない僕としては知らないことも多かったし。

ただ、これってゲイ業界にも結構あてはまるよなあ、と思ったり。化粧はみんながするわけではありませんが、やたらファッションに金をかけたり、体を鍛えたり、やっぱり「男受けを狙っている」のか「ただ自分が楽しいからやっているのか」判然としないことをやってますし。特に筋肉の場合、顔や身長以上に可塑性が高いと思われているから、それはそれで辛いのかも。もっとも、ゲイの場合は「一抜けた」が女性よりはるかに簡単なので、女性よりつらいとは毛頭思いませんが。
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『集中講義!日本の現代思想』

仲正昌樹さんの『集中講義!日本の現代思想』を読む。副題に「ポストモダンとは何だったのか」とあるように、流行が去ってしまったポストモダン思想を改めて振り返り、最後には「マルクスをリサイクルする」という主張に帰ってくる(というほどここに力点があるわけではないですが)、ストーリが割りとはっきりした、大変読みやすいものです。改めて仲正さんがこういったレビューを作るのがうまい(博識だからでしょう、やっぱり)と思いました。

現在研究をしている人なら、「哲学・思想のトレンドの中心が、フランスの構造主義/ポスト構造主義から、英米系の分析哲学や科学哲学、リベラリズムをベースにした正義論、責任論などにシフトしており、流行に敏感な日本の知識人たちも、その流れに乗るようになった」(p.216)という指摘は受け止めておく必要があると思います。ポストモダンという「悪い風邪」に一時期かかったけど、やっぱりこれが正しいもんね、とか言いながら分析哲学をベタに信奉(信奉としか呼びようがない)する、そのくせ流行に踊らされてる人、いそうだもんなあ。自戒をこめて心に留めないと。
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『死にたくないが、生きたくもない』

小浜逸郎さんの『死にたくないが、生きたくもない』を読む。

誰もが健康的に生きなければならない、という強迫観念に対し、もっとゆるくてもいいし、長く生きなくてもいいじゃん、とやわらかく水を差す本。読めるし共感もできるんだけれど、必死に生きようとしている人へ冷や水を浴びせかけているような危うさがあったのも事実。小浜さんには絶対そんなつもりはないけれども、それでも優生思想に誤読される可能性もなくはない。

ということで、上野千鶴子さんの『老いる準備』と、立岩真也さんの『ALS:不動の身体と息する機械』と合わせて読むとよいのではないかと。改めて、「できなくなること」をどう考えたらよいかは重要な問いだ、と思いました。
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2007年01月16日

『女はなぜ土俵にあがれないのか』

内館牧子さんの『女はなぜ土俵にあがれないのか』を読む。「土俵に女が入れるか」問題はある意味フェミニズムのアキレス腱でもあるので、読んでみました。僕の周りの賢い人たちはこういう問題にかかわることを巧妙にもさけているので。

東北大学大学院に提出した修論を分かりやすく書き直したものらしいですが、はい、まあ想像通り。最初の方では「伝統」とか「宗教」とかを持ち出して女人禁制を正当化していたのが、もう少し緻密に「土俵は聖域」説を持ち出して正当化しなおした、という感じです。しかし「伝統だから」よりも「聖域だから」の方がよっぽど差別的じゃないか? というか、ちゃんと調べれば調べるほど、現在の形の相撲が、一番女性差別的だった時代に「創られた伝統」ということがわかるばかりで、女人禁制も相撲の場合はあり、という結論と微妙に齟齬をきたしているんですよね。挙句の果てに「伝統の創造」をすばらしき「ビジネスセンス」とか言っちゃうし。

しかし、最終的な女人禁制の是非に関する記述を抜かせば、やはり丁寧に調べてあるだけあってこの本は結構面白いのです。この材料で「相撲の社会史」にしてくれた方がずっとよかったのに。

最終的な内館さんの提言は、@ルールに則らない「不浄な男」も土俵にはのせない、かA力士と行司以外は土俵にのせない、というもの。これ、土俵の上での男女共同参画に反対しているからゆえの案、というよりも、男女共同参画の理念と「伝統」との間での落としどころの案だと思うのですが。なんかね、結論が穏当な割に不必要に男女共同参画に批判的なところが不思議なのですよ。

僕個人は、女人禁制問題に関する決着のつけ方としては、この本の中で紹介されている秋山洋子さんの主張にほぼ賛同します。それとは別に、本文中で内館さんが最後に言っている、「そうまでして土俵に入りたい女は可愛げがない」という感情論に関して(これってまさに、女に歯向かわれた男が言ってたセリフですよね)だけちょっと。こう言われたら、女性でなくても次のように言いたいのではないのでしょうか。あんたに見せてやる可愛げなんかない、と。
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2007年01月15日

『構築主義を再構築する』

赤川学さんの『構築主義を再構築する』を読む。

赤川さん初の論文集。言説―構築主義―歴史社会学、フェミニズム―ジェンダー・フリー、セクシュアリティ、人口減少社会、という4つのテーマごとに分類されて論文が収められています。細かい突っ込みとして目次には載っているのに本文のない「はしがき」についてだけ言及しておきます(苦笑)。

論争を引き起こしそうな論点はいくつかあり、おのおのの論者が言及するでしょうから、ここでは第7章についてだけ。「戦略的本質主義」に関する赤川さんの指摘は当然だと思います。僕自身には、さらに範囲を広くとって、ゲイやセクシュアルマイノリティの運動において「戦略」を言ってしまうことは、単なるエリート主義にしかならない、それゆえに「戦略」をでなく「思想」をこそ練らなければならないという持論があるので(だから運動に全く関わらずに学問をやっている)、ここはすごく説得的でした。

しかし、だからこそ、この章の終盤での次のような文がわからないのです。

われわれが目指すべきなのは、「差異がある、だから異なる扱いをすべき」という本質主義でも、「差異はない。だから同じ扱いをすべき」とする構築主義でもなく、「差異はある。だからこそ、同じ扱いをすべき」という、別の形の平等論なのである。(p.185-186)

 一体どこの「構築主義者」が「差異はない、だから同じ扱いをすべき」と主張したのか、僕はわからないのですが、多分性差の完全な撲滅を望む「ジェンダーフリー」論者なのでしょう。しかし、そのような人が構築主義を代表すれば確かに批判に値するかもしれませんが、それは構築主義を(そしておそらくジェンダーフリーをも)不当に愚かに見積もっているのではないでしょうか。というか、そもそもここで言われている構築主義は、赤川さんが176ページで分類したところの「構築主義1〜3」のうち、一体どれなのでしょうか。赤川さんも「構築主義3」にはコミットメントしてるはずなので、どうも「構築主義3」はここで批判されている構築主義ではないようですが。
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2007年01月14日

『身体の哲学』

野間俊一さんの『身体の哲学』を読む。

精神医学の理論ではなく、現場の臨床例をもとに記述をすすめるスタイルの本でした。精神医学と言えばフロイトかラカンかはたまたユングかといったように理論家の理論を解説した本が多い中で(もちろんそれらもスリリングで面白いのですが)臨床例とか、患者を前にした医者の側がイラッとくるとか、そういった細かい精神の動きを記述した箇所のあるこの本は風変わりで面白く感じました。

しかしそれゆえに、この本が『身体の哲学』というタイトルを冠していることの意味がいまひとつわからなかったのも事実。やっぱりどちらかというと『精神の哲学』として読めてしまうんですよね、明らかに。
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2007年01月13日

『前略仲正先生ご相談があります』

仲正昌樹さんの『前略仲正先生ご相談があります』を読む。

ライターの亀井慶子さんを相手に語った哲学的時事放談。仲正さんの回答の面白みは言うまでもありませんが、亀井さんの筆力で読ませます。合いの手もオチも絶妙なんだよなあ。仲正さんがいつも一人で「怒っている」本よりも、楽しいし読みやすい(笑)。これまでの仲正さんの本の中で、一番読み手がビクビクせずに読める本ではないかと。

それにしても、表紙や章扉に描かれている仲正さんの絵、なんだかとても物悲しい気がするんですが、なぜだろう?表紙なんか背中が微妙に曲がっているような…。
posted by △ at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | かんがえをかんがえる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『問題がモンダイなのだ』

山本貴光さん、吉川浩満さんの『問題がモンダイなのだ』を読む。

何かが「問題である」とはそもそもどのようなことなのか、というモンダイを丁寧かつ平易に論じた本。毎度のことながらこの二人は「問題設定」がうまい。かゆいところに手が届くこの才能は一体なんなんでしょうか。

「問題=不意に不確定な状態を生じさせ、なんらかの対応を人に迫る物事」という定義も実に的確で、思わず引用してしまいました。最後に「自由であるために」という節を置くところも憎い。

とにかく気軽に読めるので、中高生に読んで欲しい本です。
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2007年01月08日

『入門!論理学』

野矢茂樹さんの『入門!論理学』を読む。

縦書きでしかも記号を用いない論理学の入門書。しかしながら「でない」「かつ」「または」「ならば」から始まって「全ての〜」「ある〜」を経由して、公理系の健全性と完全性、さらにはゲーデルの不完全性定理にまで触れるというなかなかに盛りだくさんな内容になっています。

縦書きで記号を用いない、ということで、この本では論理学の形式的側面と内容的側面の両方に目配りしながら記述が進められていきます。その上で、日常語の用法に引きずられそうになるところでは必ずガイドがつくので、道に迷うことはありません。ゆっくりじっくり読めば必ず最後までたどりつけるようになっています。

論理学は一つ一つ論証を積み重ねていくそのプロセスが大事なので要約してもあまり意味がありませんが、「縦書きで記号を用いない」という記述のスタイルに触れ、思ったことがあります。このように「日常語に近いけれども、日常語とは微妙に異なる」言語的営為を論理体系の一つと呼ぶのならば、日常語それ自体は一体どのような論理体系になっているのか、気になるのです。日常語でだってたいていのことは言い表せるわけですから、その意味で(あくまで括弧つきではあるものの)「完全性」を備えているのではないか。としたら、日常語自体も一つの体系として記述することが可能なのではないか。これは言語学の問いだ、と言われればそれまでですが、しかしそれは十分に「論理学」足りうるのではないか。そんなことをふと思いました。
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『カネと暴力の系譜学』

萱野稔人さんの『カネと暴力の系譜学』を読む。

国家と暴力、所有と労働に関して最も簡潔で分かりやすく述べた本だ、と一読して思いました。とにかくびっくりするくらい分かりやすい。国家とヤクザの類似点と相違点を探る中から、国家と暴力のあまりに緊密な連関が浮かび上がるところなど、「なるほどそうだったのか!」と思うこと間違いなしです。

ただし、タイトルに対して、本書(4章立て)中、主にカネについて述べたのは最初と最後の章のみで、もう少しカネについて読みたいなあ、と思ったところも事実です。これは多分萱野さんのせいではなくて、カネというものが国家=暴力の図式をある意味隠蔽するために行う擬態を全てそぎ落として記述しているからこそ起こることなのだとも思いました。「貯蓄」や「運用」と言った言葉が隠蔽してしまう「カネ」のおそろしさがむしろよく描かれている、とすら言えるのかもしません。
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2006年11月14日

『社会』

市野川容孝さんの『社会』を読む。そりゃあ、社会学の専攻ですし、読まないわけにはいかないですよね…しかしまあよりによってこんな分厚い本をお書きになられて…しんどいです、読むのが。

「社会」ではなく、「社会的」(the)socialという表現がいったいどのような歴史性を持って立ち現れたのか、そのヴィジョンに再びどうやって息を吹き込むか(この表現、正しい?)、そこにポイントを絞って書かれた、まあ「歴史書」です。下世話な読み方ですが、いわゆる「正統な読み」にない読みをくり広げている、ベンヤミンのところとニーチェのところを面白く読みました。えっと、歴史記述よりも思想書のテキスト読解が面白いっていうのは、市野川さんの言わんとするところをわかってない、ってことだとは思うのですが。

ただね、やっぱりわからないのが、「社会」を語ってしまうその語り口のどこに市野川さんが苛立っているのか、なのです。「社会的」という言葉の歴史性を追う作業は重要だし、面白いと思うけど(って本文の要約すらしていない僕が偉そうには言えませんが)、それがとりあえず歴史性を脱色した「社会」と共存するのは不可能なのかな?共存とは言わずともすみわけは可能だと思うし、抽象度の高い「社会」という言葉もそれはそれで重要だと思うのだけれど。多分市野川さんの苛立ちを共有できた人だけがこの本に熱狂するのだと思う。そして残念ながら僕は共有できないです、はい。関係論的視座(北田さんが用いた表現だと思う)に寄り添った意味での「社会」という言葉も重要だと思うのだけれどなあ。
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2006年10月29日

『バックラッシュ!』

『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか』を読む。

もともとジェンダーフリーに距離感を持っていた人がさすがにこれはまずいだろうとジェンダーフリーを擁護する、というなかなかにシニカルなポジションからの論考を集めた本。確かに面白いです。ジェンダーフリーへのバックラッシュは単なるシングルイシューに関する問題というよりも「社会全体」の雰囲気の不穏さとつながっている、と言った論考が割りと並んだ感があります。そして僕はこの種の「ジェンダーに関する問題に限定されるわけではなく…」という語り口と実は相性がすごく悪いのです。どうしても「社会全体のことを私はわかっている」というナルシズムに読めてしまう、というか。

いえいえ、これらの論考の書き手が悪いのではなくて、多分あまりにもまっすぐにジェンダーの不平等に憤ってしまう僕がいけないのです、多分。
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2006年10月25日

『図書館は本をどう選ぶか』

安井一徳さんの『図書館は本をどう選ぶか』を読む。

図書館のへヴィユーザである僕にとっては大変身近な問題。その一方で本を選ぶ側にいない僕にとっては全く遠い問題。本を選ぶという営為を捉えるための議論の前提をコンパクトかつ手際よくまとめてある論文です。なんと卒論!優秀な人は優秀なんだなあ(遠い目)。

昔地元の図書館の利用者アンケートに「ベストセラーを何冊も買わないでその分専門書を増やしてくれ」とか書いた気がするのですが、それもまた一つの立場に過ぎないということがわかって少し賢くなりました(苦笑)。多分『失楽園』かなんかをたくさん買いすぎていることに腹を立てていたのだと思われ(笑)。

著者の安井さんも述べているとおり、この本には答えが書かれているのではなく、むしろ問いの整理が記述されていると考えた方がよさそうです。だから答えはまだ出ていない。ブレイクスルーをぜひ安井さんが見つけてくれることを期待します。
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2006年10月20日

『「ジェンダー」の危機を超える!』

若桑みどりさん、加藤秀一さん、皆川満須美さん、赤石千衣子さん編著の『「ジェンダー」の危機を超える!』を読む。バックラッシュ派に対抗するための集会の模様と、それに寄せた文章の載った本です。

大変熱い思いが伝わってきて感銘を覚えたのも事実ですが、一番素晴らしいと思った文章は「渦中の人」上野千鶴子さんのものではなく、加藤秀一さんのものでした。ご本人が「人の話が混乱してるように思ったとき整理するのが大好き」とおっしゃっていますが(p.218)、その発言の通り、さくっときれいに議論を整理して、返す刀でバックラッシュ派の惨めなレトリックをばっさり切り落とすところが壮観です。彼の仕事に接するたびに「あ、真面目に考えるのってやっぱり大事だな」と思って、自分を鼓舞しているところが、僕にはあります(苦笑)。
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2006年10月17日

『西洋哲学史:近代から現代へ』

熊野純彦さんの『西洋哲学史:近代から現代へ』を読む。前作に引き続き現代まで西洋哲学史はついに到達します。

最後にレヴィナスで終わるところが熊野節!って感じではあるのですが、むしろその直前でヴィトゲンシュタインからハイデガーに記述をつなげていくところに熊野さんのセンスを感じさせます。言うまでもなく、両者は「世界」に関するかなり独特の、近くて遠い思想をつむいだ哲学者ですからね…。西洋哲学に関する知識がほとんどない僕ですら、最後にどう着地するかに結構胸躍ったりしました(汗)。

あとがき大好き人間としては、端正な文体でつむがれるこのあとがきにも惹かれるものがあります。こういう美文が書きたい(涙)。
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『笑う大英帝国』

富山太佳夫さんの『笑う大英帝国』を読む。

イギリスのどぎついユーモアのセンスを言葉だけでなく写真ありマンガありで伝える快著。ある意味この本が岩波新書に入っていることがブラックユーモアですらある(やや誇張あり)。

とはいえ何よりすごいのはやはりイギリスのユーモアのどぎつさ。イギリス人のユーモアは日本人のブラックユーモアと言わんばかりに、かなりの高速かつ執拗な攻撃に身をかわすこちらも必死です。

妙にPC的な観点からユーモアの効力を削いでいないのもこの本のよいところ(正確には富山さんがなんでも笑って済ませば済むと思っていないところが文章からわかるから、安心してブラックなユーモアも受け流せる)。この軽妙洒脱さはむしろ「使える」のではないか。
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2006年10月08日

『ユリイカ2006年9月号 特集:理想の教科書』

『ユリイカ2006年9月号 特集:理想の教科書』を読む。はい、斎藤美奈子関連情報ということで、石原千秋さんとの対談を重点的に読みました。あと、谷川俊太郎さんのインタビューも面白い。他にも上野千鶴子さんと黒沢清さんの文章(正確には後者は対談)が入っているのもお得感がありますね。

とはいえ、僕がもっとも強く驚いたのは、石原千秋さんが対談の中で述べていたことに対して。なんと石原さんの中学校の時の国語の先生が牟礼慶子さんだった(p.59)!いいなあ、うらやましいなあ、僕も詩人に習いたかったなあ。牟礼さんの「見えない季節」、僕、好きなんだよなあ。そりゃあ石原さんも国文学をやりたくなりますって。

教科書に関してはみなさん言いたいことがいっぱいあるようで、各人の違いを見ていくのも面白いですね。これだけ教科書に関してみなが一言言いたいのも、裏返しの意味で「教科書神話」なのでしょう。そういう読み方をしたほうが、ためになります。
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『サルトル「むかつき」ニートという冒険』

合田正人さんの『サルトル「むかつき」ニートという冒険』を読む。理想の教室シリーズの一冊。

理想の教室シリーズで最も文章が「難しい」作品です。文体がゲンダイシソウっぽいんです。ゲンダイシソウっぽくてしかもとりあげているのがサルトル(実存主義!)だから、なんとなく不思議な感覚があります(僕がサルトルに関する知識がない、というのももちろん大きな原因ですが)。

副題にもあるニートという言葉が最初の方に出てきます。『嘔吐=むかつき』の主人公こそニートじゃん、という話になっているわけです。千田さんの議論を「怖い!」と退けているので、僕のような人間からするとこの部分が一番違和感があったかなあ。別にニートという撒き餌に食いつきはしない僕から見ると、『嘔吐=むかつき』にニートを見てとるその「想像力」がむしろ居心地の悪いものなのですが。
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