2006年09月29日

『エジソン 理系の想像力』

名和小太郎さんの『エジソン 理系の想像力』を読む。理想の教室シリーズ、はじめての「理系」の本です。

エジソンがいかにすごいか、を書いた三回の授業に質疑応答がつくのですが、この質疑応答が最高に面白い。「エジソンの発明って後で全部覆されて今では残ってないじゃん」とか、結構クリティカルな質問が出されて、それに答えていくうちにむしろドミナントな「エジソン物語」が裏切られていく。そこからがむしろ立体的なエジソン像が見えてくるんですよね。名和さん自身の単純なエジソン礼賛でないスタンスもむしろ見えてくるし。

ということで、理系でない人でも、むしろある人について「伝記」的に語るということの面白さと危うさを読むという意味で試してみてはいかがでしょう?
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2006年09月22日

『連帯の新たなる哲学』

P.ロザンヴァロンさん著、北垣徹さん訳の『連帯の新たなる哲学』を読む。

有名な本らしく、和訳が出る前に授業でブックレポートをしてくださった方がいたのですが、本自体を読んでいなかったので読んでみました。

が、どうも訳文との相性が悪いらしく(決して悪い訳文ではないのですが
、結構つっかかってしまってうまく意味が咀嚼できませんでした。残念。修論が終わったらリベンジします。書誌情報(というほどでもないか)をあげるだけ、ということでご勘弁。

読み終わって覚えていることが「この本の翻訳を北垣氏に勧めたのは稲葉振一郎氏である」ということだけって我ながらちょっとな…。
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2006年09月18日

『小説のストラテジー』

佐藤亜紀さんの『小説のストラテジー』を読む。早稲田大学で行なわれた講義を元に『ユリイカ』に連載されたものをまとめた本です。

出だしで一枚の絵画を佐藤さんが「読んでみせる」のですが、その見事さに完全にノックアウト。絵画を見ることの運動と速度が、文章の中でこんなにも美しく表現されていることに驚きました。

そしてまた、佐藤さんはこの読むことの運動性を自身の書くことに対しても自覚的に適用するので、この『小説のストラテジー』を読むこと自体が非常に心地よい「読むことの運動」になっているのです。小説そのものではないのに、ページをめくるのをとめられないこのリーダビリティは一体なんなのだ。

この本での文体は大変鋭く、ありていに言ってしまえば「毒舌」なのですが、それすら大変に心地よい。ひさしぶりに爽快な読書を体験しました。

うーん、佐藤さんの作品、実はまだ一つしか読んだことがないので、もっとちゃんと読んでみよう。
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2006年09月12日

『所有と国家のゆくえ』

稲葉振一郎さん、立岩真也さんの『所有と国家のゆくえ』を読む。対談集です、はい。

稲葉さんと立岩さんってどこが違うの?って思っていた人には、この対談はかなりわかりやすく両者の違いがわかる意義深い本だと思います。ものすごくはしょって言うと、稲葉さんにとっては再分配政策よりも経済成長が重要で、立岩さんにとっては経済成長よりも再分配政策が重要。もう少しつっこむと、再分配政策には今多く持っている人が賛成しない、という現実を受入れるのか(稲葉さん)、それに「義務」を対置して再分配を正当化するのか(正当化)がそこでは対立点になっている。

あと、この対談を読むと、立岩さんがかなり規範論にシフトしているのがわかる。シフトって言葉に違和感を感じるかたもいるでしょうが、こういうことです。『私的所有論』のすごいところは、なかなか「ルサンチマン」などがあって容易に納得されそうにないやり方を、「だって人間って結構こんなもんなんだからむしろ大丈夫でしょう」という形で現実(の個人、の考え方、とされるもの)に即した形で書いてしまったところだと僕は考えているんですが、それでは意地悪な人は納得しないだろう、と突っ込む稲葉さんに対し、立岩さんがずるずると「規範」を持ち出してしまう。もちろん規範はそれでよいのですが、『私的所有論』からするとやや距離があるなあ、と。

ということで、ボロボロと崩れそうな「印象論」でした。
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『隠喩としての少年愛』

水間碧さんの『隠喩としての少年愛』を読む。おお、「東京」のつかない「創元社」があるんですね…ミステリマニアとしてはそこがまず驚きだ(笑)。

さて、珍しく、本当に珍しく自分の修論のテーマにかかわる本です(汗)。
ここでいう少年愛とはいわゆる「やおい」のことを指すと考えてよいようです。ただし、二十四年組にかなりウェイトをおいて記述が進んでいるので、ややイメージがずれるかもしれません。

まず、端的に僕はこの本の主旨である「女性が母から分離自立するためのスプリングボードとして少年愛がある」式の結論に納得できません。そこだけその論拠が精神分析によってすごくさらっと書かれてしまっていてうまく説得されなかった。

そしてもう一つ、一つ前の段落と関わることなんですが、二十四年組とやおいとを割りとさらっと連続させて書いていることも気になる。その結果、やおいにおける「攻め/受け」がものすごく価値のないものとして一刀両断されている。それも記述としては本当に少しで、むしろ本論全体では「双生児モチーフ」なんかを使いながら妙に「平等」な二人の関係が描かれている。はっきり言って世の中の腐女子はこの本を読んでやおいについて何か重要なことが書かれているとはまったく感じないはず。「本物の腐女子」から腐女子認定を受けた僕も、激しく納得できない(笑)。攻め/受けについてまともに論じられないならばそれはやおい論としては失格でしょう。少なくとも「攻め側に女性が同一化することによるジェンダー役割のファンタジー上での転覆」とかいう通説をひっくり返すくらいのことをしないと分析としてはダメで、単なる当事者手記を超えられないでしょう。

ああ、今日は私憤が噴き出してますねえ(苦笑)。

あえてつまらないことを言っておくと、これには著者の世代が絡んでいるのかもしれない。著者の水間さんは現在50代で、30代40代を少年愛とともに(笑)過ごした方なので、現在の「萌え」みたいなものを通過したやおいとはお話が全然違うのだろうなあ、と。
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『日本とドイツ 二つの全体主義』

仲正昌樹さんの『日本とドイツ 二つの全体主義』を読む。「戦前思想」を書く、という副題のとおり、前作で書いた戦後思想の前段階を書く、という試みです。

本論に関して割愛(!)。エピローグが面白い。新書だと批判を注でかわすことができないから、こうやって最後にまとめて尻拭いするみたいになっちゃうんですね…文章のスタイルによってはそうせざるをえないのだろうなあ。学者って大変だ。
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『現代思想ガイドブック ミシェル・フーコー』

サラ・ミルズさん著、酒井隆史さん訳の『現代思想ガイドブック ミシェル・フーコー』を読む。

このシリーズは訳者あとがきを読むために読むべし、というのがまあ大体の相場だとは思いますが(だがどの相場?)、今回も酒井さんはなかなかに厳しいコメントをしています。主要著作と「思考集成」に代表される周縁的テクスト群とのずれというフーコーの作業にとって大きな駆動因となるを無視し、主要著作の解説だけに偏った話になっている、というのがそれです。僕はフーコーに詳しくないのでなんともいえませんが、直感的にはその批判は正しいとは思います。ただ、著者自身がフェミニズムをやっているだけあって、僕としてはむしろ本文の偏りと相性がよかったことに安心したのも事実。使えそうなフーコーの文章も発見しましたし(ただし本当に使えるかは僕の頭脳にかかってますが、かつ厳しそうですが)。ただフーコーの一般的な入門書としてはやや簡単かな…という気がしました。僕に簡単って言われるくらいだから本当に簡単なのではないかと(苦笑)。
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『リベラリズムとは何か』

盛山和夫さんの『リベラリズムとは何か』を読む。リベラリズム三部作に加えて四部作にしようと思ったけれど、実はこの本だけリベラリズムに批判的なので(この表現は誤解を招くか…三部作はリベラリズムから救える部分を救うのに対し、この本はリベラリズムの中のダメな部分を浮き彫りにする、と言うほうがよいかも)三部作は三部作ということで。

論全体の話はおいておいて、まず論争になるだろうな、と思うのはロールズの議論の解釈に関して。びっくりするぐらいストレートに盛山さんはロールズの「正しい」解釈を示し、またその解釈はなかなかに今までのロールズ研究者と力点が異なるので、なかなかに大変なことになるのではないか。僕はロールズに関しては全く知らないので(ほんの少しだけ誇張あり)本当はかなり大事だと思いつつもスルー。

全体に関して、盛山さんがロールズから最大の意義として引っ張ってくるのが、盛山流に言えば「仮説としての規範的原理の探求」というプロジェクトの思想です。これ自体はあえて言い切ってしまえばかなり穏当な結論ではあるのですし、別に否定するつもりもありません。ただ最後の最後で盛山さんはこのプロジェクトを「正義」と呼ぶよりもむしろ「公共性」という言葉で形容しようとするのです。これがよくわからない(次回作で書きます、と宣言されているので当たり前ですが)。唐突に出てきた言葉なので思いっきり躓きました。一体どういうことなのかなあ?疑問は次の本に持ち越しです。
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2006年09月08日

『ダメットにたどりつくまで』

金子洋之さんの『ダメットにたどりつくまで』を読む。

わからないなりにまとめてみます。本書はダメットの反実在論の核心を救い出す本です。ただし、ここでの反実在論は懐疑主義や相対主義というイメージを語られるあの反実在論ではありません。ダメットにとっての反実在論とは、排中律を取らない理論のことを言うのです(やや単純化)。

そして、そのことを説得的にするために使われるのがブラウアーのものをダメット流に洗練させた数学に関する直観主義です(さすがに僕でも、高校時代に数学に関する思想には規約主義とか基礎付け主義とか、いろいろあるのは知っていました)。

その具体的な道筋は本文を追っていただくことにして、排中律ってそんなんに論争的な問題だったんだ、ってことを僕はあまり知りませんでした。排中律を取らない反実在論が整合的なのって、なんだかとても面白い。
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『テヅカ イズ デッド』

伊藤剛さんの『テヅカ イズ デッド』を読む。以前に予告していたのですが、やっと読了。

マンガの表現論に関する最も理論的かつ重要な達成です。と誉めるのは簡単なんですが、この種の「理論的」作業と、手塚治虫という呪縛からの解放という具体的な作業を一冊の本の中で同時に行えているのがすごい。こう言ってよければ、これはマンガ版『物語のディスクール』なのです。

もちろん有名な「キャラ」と「キャラクター」の違いも興味深い。ちゃんと原典を読むとそれが時間性、あるいは運動性に関する理論的装置であることがわかり、勉強になりました。

しかし僕がもっともさすが!と思ったのはコマ構成、コマ展開、コマわりなどに関する議論と、そこからつながっていくフレームの不確定性の議論。きちんと整理されている上にマンガのマンガたる特徴がよくわかる部分で、今後のマンガ研究者は本当にこの整理によって楽になったのではないか。

多彩な実際のマンガの引用も含め、徹底的に読まれるべき作品です。こういう本が書けるの、素直にうらやましい。
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2006年08月31日

『大学生の論文執筆法』

石原千秋さん著の『大学生の論文執筆法』を読む。

第一部では秘伝人生論的論文執筆法と称して論文を書くとはなんぞやということを書いています。中で斎藤美奈子氏の批評が妙に持ち上げられている(笑)。

第二部では論文とは「線を引くこと」だと喝破した石原さんが、佐伯啓思さん、上野千鶴子さん、前田愛さん、若林幹夫さん、杉田敦さん、成田龍一さん、久米依子さんの論文やエッセイをとりあげ、線をひくという方法がどのように行われているかを解説してくれています。優れた論文を題材にしているので大変面白く、またさりげなく論文中の偏見をちくりと攻撃するところも笑える。

実はこの本を読んで、自分なりに妙に「勇気づけられた」ところがあります。それはもちろん線を引くということの有効性をもう一度示してくれたことです。タチ/ネコとかをやっていると、「それは二項対立だからよろしくない」という、それ自体凡庸なまでに二項対立的な発想で反論されることがあって、はっきり言って反吐がでるのですが、今度からはそういわれたら「線を引きなおすことが論文なのであり、そんなに線を引くのが嫌ならあんたは黙ってろ」と言い返すことにします。線を引くって、「現代思想」っぽく言えば再分節化する、ってことですからね。

とか自分語りになりましたが、もう一つテクニカルにためになったのが「段落の最初が『このように』ばっかりの文章はダメ」ということ。その部分を読んだ後自分の文章を読んだらまあ「このように」ばっかり(汗)。急いで直しました。というか、全部とっても問題なかったので、適当なつなぎ言葉として使っていただけのようです。あれま。
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『モダンのクールダウン』

稲葉振一郎さんの『モダンのクールダウン』を読む。

Intercommunicationに連載していた「片隅の啓蒙」の書籍化第一弾。連載ということで、結末に向かって構築された一つの著作、という印象はやや薄く、回り道したり行ったり来たりしながらだんだんとことの消息(by熊野純彦)に迫っていくタイプの本です。例えば註がないことも特徴ですね。

そういった外見上の特徴とは別に、タイトルが示すとおり稲葉さんのこの本は、ポストモダンという騒ぎを離れたところでその言葉がさし示そうとしたことにもう一度踏み込んで、過熱化したモダンをクールダウンするポテンシャルを引き出そうとする意欲作です(あるいは実は全く逆に、ポストモダン状況において「モダン」をどう継承するか、に関する問いとも言えるし、稲葉さん自身はこのように書いてもいます)。社会学は近代内の学問なので、学全体としてポストモダンに関して冷ややかかつ羨望に満ちた眼差しを送るだけだったのですが、稲葉さんみたいな硬派の論客がこう切り込んでくれるとなんだかありがたくてひれ伏したくなります(苦笑)。

無知を承知であえて言いますが、僕は稲葉さんが準拠する永井均さんの議論がどうもうまく咀嚼できなくて、そこでいつもつまづくのです。彼の授業にも出たことはあるんですが、まあいつも一番後ろの席で居眠りしてましたので(汗)。
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『正義の論理』

土場学さん、盛山和夫さん編著の『正義の論理:公共的価値の規範的社会理論』を読む。収録論文は次のとおり。

序章 現代正義論の構図……盛山和夫
第1章 <自由>の論理──自由の社会学理論の構築へ向けて……土場学
第2章 <効用>の論理──ハーサニ型効用総和主義の失敗……三谷武司
第3章 <平等>の論理──リベラリズムとの関係を軸にして……瀧川裕貴
第4章 <公平>の論理──誰をどのように含めるのか……斎藤友里子
第5章 <自生的秩序>の論理──ゲーム理論と正義……石原英樹
第6章 <民主的決定>の論理──判断モデルにもとづく認識的ポピュリズム…富山慶典
第7章 <自己決定/ケア>の論理──中絶の自由と公私の区分……山根純佳
第8章 <福祉>の論理──何のための社会保障制度か……盛山和夫
終章 正義・不正義・反正義──現代正義論と公共社会学の可能性……土場学

毎度のことながら、盛山さんの書く論争全体の見取り図的論文(この本の場合は序章)はコンパクトかつまとまっていて読みやすい。ものすごく勉強していないとこのわかりやすさかつ目配りのよさでは書けないですよね。

そのほか、山根論文はこの本の中では若干浮いているものの、逆にそれだからこそ僕のような人間には興味深く読めました。加藤秀一さん、井上達夫さんの論争へのリファーもあり、中絶に関して道徳の問題を呼び込むことでむしろ公共的な正義論への接続をはかるところは、その是非も含めて議論されてしかるべきものだ、と思いました。

関係ないのですが、この本、市内の図書館には蔵書がないのだそうです…勁草書房の本を持たない市立図書館なんて図書館としてはダメだ!と声を大にして叫んでおきます(笑)。
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『原因と理由の迷宮』

一之瀬正樹さんの『原因と理由の迷宮』を読む。『原因と結果の迷宮』に続く、迷宮シリーズ第二作です。

理由と原因はどこが違うのか、という点を、不確実性、曖昧さ、確率などにひきつけながら丁寧かつ説得的に論じた著書。中身に関しては不勉強な僕は言及を控えますが(かなり及び腰)、因果と理由を論じてきた迷宮シリーズがついに第3作では責任の問題に取り組むことになりそうだ、ということがわかりました。これはかなり楽しみです。でも前作が2001年、今作が2006年ですから、次は2011年でしょうか…もう少し早く読みたい(汗)。
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2006年08月26日

『日本語の森を歩いて』

フランス・ドルヌさん、小林康夫さん著の『日本語の森を歩いて』を読む。

「よく言うよ!」の「よく」ってどういう意味さ、とか、
「しまった」!って過去形なのか?とか、
そういう日本語の細かい使い回しが持つある種の論理を丁寧に解き明かしてくれる本。言語学、結構好きなので(それこそ「私はウナギだ」に素直に感動していたのです、学部の授業では)楽しく読めました。日本語をあたかも外国語であるかのように学びなおしていくのってスリリングですよね。

ちなみにドルヌさんの立場は生成文法でも認知言語学でもないので、その辺が実は重要な論点なのかもしれませんが、僕は言語学にそこまでは詳しくないのでその検討は別の方に。でもモダリティとかアスペクトとかって、それなりにいろんな言語学でも聞く気が。共通部分も多いのか?
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2006年08月23日

『カーニヴァル化する社会』

鈴木謙介さんの『カーニヴァル化する社会』を読む。

読むまで「カーニヴァル」っててっきりバフチンを念頭においていたのだと思ったらそうではなくて、バウマンでした(汗)。その程度すら知らないのだから不勉強というのは恐ろしい。

「祭り」に関する現時点でのコンパクトかつ包括的な作品。目配りがうまいですね、鈴木さん。余裕が感じられるなあ(飲んだくれ親父風に)。

カーニヴァル化自体はよくわかったので、あえて「タコツボ」的に話を進めると、鈴木さんが北田さんを批判するのは、北田さんは「反省」と「再帰」の違いがわかってないから、だというものです。これはかなり重要な論点をはらんでいると思う。正確には、「再帰」という言葉をペダンティックに使えてしまう社会学者の無知に体当たりしている点で、かなり論争的な問いだと思う。「再帰性とは耐えざる自己反省である」って短絡、往々にしてしちゃうもんなあ。

ということで、この論点は少し自分で考えてみたいと思います。だがいつ?
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『色彩の哲学』

村田純一さんの『色彩の哲学』を読む。

実は高校生の頃ヴィトゲンシュタインの『色彩について』を読んだことがあったもので、気になっていたので読んでみました(しかしなんでこの忙しい時期に?)。

「色彩は感覚である」という「専門家」の見識に対し、「このりんごは赤い」と対象に託して色を言ってしまうこの「常識的」な直感にも意味があることを現象学を使って説明していく著書。対象(色彩)の面白さと道具(現象学)の切れ味がうまく組み合わさって、大変スリリングな書物になっています。読んでよかった。

前述の「常識的」直感を救う第一部は圧巻。うまく批判をかわしていく手際のよさがうらやましい。こうしてみると現象学って面白いのかもしれない。
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2006年08月15日

『「つながり」という危ない快楽』

速水由紀子さんの『「つながり」という危ない快楽:格差のドアが閉じていく』を読む。

格差に絡めて小さな「つながり」を持ち出す(そして批判する)ことに対して僕は「それ一辺倒でない穏当な主張ならばまあよいのではないか」くらいのゆるいスタンスで臨んでいるので、特に抵抗もなく読めました。二箇所だけちょっと驚いたのですけど。

一つ目。この本はところどころに鈴木謙介さんの文章を載せています。ただ速水さんの鈴木さんの持ち上げ方がよくわからない。

 会うたびに思うことは、彼は過剰な自意識の処理に実に手馴れている、ということだ。つまり「自意識でモノをいうのは痛い」という世代に揉まれて育ったせいもあり、過剰な自意識やルサンチマンはきちんと音楽や仲間のコミュニティで処理をして、残った言論人としての使命感だけで理論を組立てられるので、専門家としての意見を信頼できる。
 昨年、この業界では異例の若さで結婚。「ホームベース作り」の第一歩を踏み出した。(p58)

こんな風に紹介されたら、僕は鈴木さんのことを評価したくなくなるなあ。あらかじめ鈴木さんの文章を読んだことがあったからよいものの。

二つ目。ペドファイルなオタクに関する速水さんの次の言い方も僕にはわからない。

「際限なく自分の萌えを追及しなさい。そのためのツールはいくらでも提供できる」というメッセージではなく、「正しい萌え方」「正しいオタク的成熟の仕方」を発信する機能があるべきだ。そうでないとせっかく世界に認められるカルチャーになった「オタク」が、ただの「欲望産業」にとって代わられてしまう。(p71)

 ただの欲望産業でいいじゃんねえ、と僕なんかは思ってしまいます。実際の子どもを傷つけてはならないのは、守らなければいけないけれど、欲望産業云々とは別のルール。ゲイの場合もそうなのですが、それを「カルチャー」とか「ライフスタイル」として「昇華」させてしまう戦略に僕は強く懐疑的です。それって結局マジョリティが受け入れられる上澄みの部分だけを取り出してディスプレイすることへの後退では?
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『遺伝子「不平等」社会』

池田清彦さんの対談集、『遺伝子「不平等」社会』を読む。対談相手は小川眞理子さん、正高信男さん、計見一雄さん、立岩真也さん。はい、誰が目当てで読んだのかがすぐわかる(汗)。

性に関してはさすがに小川眞理子さんのほうが一枚も二枚も上手。僕も昔著作を授業の発表で使わせていただいたのですが、科学がわかってジェンダーがわかる人がいるというのは心強い。正高さんと計見さんに関してはよくわかりません(汗)。ケータイを持っサルは僕の範囲外。立岩さんは、まあいつもと同じことを言っていますが、人の生き死にに関わることですから、何度言っても言いすぎということにはならないでしょう。

対談本読みとしては、池田さんが自説を変える気が全くないのが面白い。かみ合っているように見えてかなりすれ違っている部分が多く、それを見つけて楽しむのもまたよろし。
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『「日本国憲法」まっとうに議論するために』

樋口陽一さんの『「日本国憲法」まっとうに議論するために』を読む。理想の教室シリーズの最新作ですね。憲法に関する基本的な知識を教えてくれるという意味では、あまりない本なのかもしれません。

でも、どうしても意味がわからないところがあったのです。何度読んでも意味がわからない。

 ところで、憲法二四条の文言は、婚姻が「両性の合意のみに基いて成立」するとのべ、「両性の本質的平等」と言っています。ここで「両性」とは、男性と女性のことだと読むのが、普通でしょう。そしてまた、そこにこそ、一九四六年という時点で日本国憲法が新しい理念を掲げてその実質化の方向をさし示した大きな意味がありました。そのうえでのことなのですが、つぎのような問題が出されてきました。――ここでいう「両性」とは、常識的に人びとが想定するオトコとオンナのことに尽きるのだろうか。同性愛者にとっての性的結合の相手方同志は、「両性」といえないのか。性同一性障害にあたる場合にはどう考えるべきか、などです。性(sex)による差別の解消を主張する立場から、男女の別をgender(ジェンダー)と呼ぶならわしが、英語圏からはじまって、他の言語圏にもひろがっています。genderは、もともとgenre(ジャンル)を意味します。この言葉の内包する論理からすると、男女というジャンルを論ずる場を越えて、およそジャンルによる不均等取扱を否定して「本質的平等」を推進する起爆力となる可能性と危険性が含まれているのではないでしょうか。あえて「危険性」と言うのは、その論理をおしつめると、個人の結合でなくジャンルの連結から成る社会が構想されるからです。(p71)

最後の二文がわからないのです。どうしても、どうしても。

追記:引用(の量)に問題があればコメント欄にその旨書き込んでください>誰か