2006年08月15日

『来たるべき世界のために』

ジャック・デリダさん、エリザベート・ルネディスコさんの対談本、『来たるべき世界のために』を読む。ま、僕にデリダの思想はよくわからないので、対談本読みとしていろいろ言ってみます。僕は文系の大学院生にしてはかなり対談を多く読んでいる方だと思います…ミーハーなんです、単に。

訳者あとがきでも書かれているように、ルネディスコ氏が「目上」のデリダ氏にお伺いを立てているように見えるのは確かです。ただその予定調和的な均衡が崩れるのが5章「動物たちへの暴力」。ルネディスコ氏が動物への暴力に対する自身のスタンスを語ってしまい、そこがデリダ氏のそれと異なることから一瞬対談がそこでほころぶんですね。こういう瞬間が記録されていない対談本というのはどうにもうそ臭くていけないので、この本はギリギリ対談の危険な魅力を内包していると思います。もっとも、やっぱり二人の間に上下関係があるように読めてしまうのはかなりのマイナスなのですが。

死刑などに関するデリダの思想は、とりあえず非常に表面的な意味で大変に説得的なものとして僕にはうつりましたが、逆にその思想と「脱構築」というあの用語との接続がよくわからなかったのも事実。僕が脱構築について何も知らないからでしょうか。
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2006年08月10日

『女たちのやさしさ』

田中克彦さんの対談集、『女たちのやさしさ』を読む。対談相手は斎藤美奈子さん、伊藤比呂美さん、多和田葉子さん、小倉千加子さん、中村桃子さん。これだけ豪華な対談相手に囲まれるなんて、それだけでうらやましい。

とはいえ、女性と対談して『女たちのやさしさ』とか名づけちゃう田中さんはなんだかなあ、という気もしなくもない。必ずしも田中さんがそう考えているわけではないですが、女性というものはやさしい、という形で女性を持ち上げるあの巧妙な(と昔は思えたものの今では大変杜撰な)、しかし大変よろしくない方法にも思えるからです。実際田中さんは対談中で対談相手を大変きわどいやり方で持ち上げてしまっているところもちらほら。

とはいえ、この5人との対談が面白くならないはずがない。予想外に斎藤さんが田中さんを持ち上げ、伊藤さんはかすかにけんか腰、多和田さんは田中さんの極論に我関せず、小倉さんは田中さんが自分と好戦的な面で似ていると発言し、中村さんは田中さんとの共同作業で新しい研究テーマを発掘したと喜ぶ。この5人の立ち位置を見ている方が僕にはよっぽど面白い。対談は対等な感じで行われていますが、あえて読む時は田中さんに道化役に回ってもらって、5人の側に注目すると、かなり面白く読めますよ。
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2006年08月09日

『イマヌエル・カントの葬列』

鈴木晶子さんの『イマヌエル・カントの葬列』を読む。カントにおける啓蒙状態への人間の「跳躍」を、一方で教育思想、一方で死や喪の議論へと結びつけながら思索する力作。

いや、これ、面白いです、かなり。啓蒙された状態への「跳躍」をカントの有名な概念「もの自体」との関連でわかりやすくまとめ、その間隙をいかに埋めようと教育思想家が格闘したかを追う第一部や、具体的な事件(野生児の保護)ないしトピック(体罰に関して)を調べながら教育を論じる第二部など、教育に関する根本の根本を濃厚に論じる部分は、教育の技術論自体にはあまり興味がない僕にもいや、そんな僕にこそ楽しめました。カントをこういう関心から読む本、ありそうでなかったのでうれしいですね。

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『初心者のための「文学」』

大塚英志さんの『初心者のための「文学」』を読む。

「文学」を、「文学」に抗する形で読む試み。といっても、テキスト中心主義に小説の読みを転覆していくのではなく、「近代文学」という様式が必然的に巻き込むいびつな近代的自我の形を正確に描き出し、その上で批判する試みです。したがって、大塚さんの読みは「私小説」的な近代小説の批判としての作家主義的なものになっています。

大塚さんの持つイデオロギーに対しての違和感がある人もいると思います。ただ、僕個人としては、大塚さんが戦略的にせよ近代文学の私小説性を批判するために作家主義的な批判をしてしまったことの方が少し疑問。むしろそうした作家主義的な読み=小説を作家の私小説として読んでしまう読みを転覆するためにこそテキスト中心主義的な読みをするべきなのではないか。そこにおける「あえて」の作家主義戦略こそ、「近代文学」を今までとは違った形で復興させたい大塚さんのやり口だとはわかっているのですが。

追記:そういってるお前がずいぶんと作家主義的な語り口をするではないか、という指摘はごもっとも。この本に関しては「だって大塚さん、自分の『意図』をわかってもらいたそうなんだもーん」という皮肉も込めて、このブログ全体に関してはそもそもブログで「作者の意図」をあえて裏切るような芸をお見せするほど僕は引き出し持ってませんから、というエクスキューズを込めて、作家主義を採用しています。そもそも僕は文学読みではないしね。
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『感覚の幽い風景』

鷲田清一さんの『感覚の幽い風景』を読む。「ほころび」「疵」「聲」「ふるえ」「まさぐり」「縁」「まどろみ」「ぬくみ」「こもり」「うつろい」「ファッショナブルな器官」という各タイトルのもとに、意識と思考のゆるやかな流れを流れのままに書き留めた文章群です。

鷲田さんの文章は立ち止まらないで流れるように読むとどんどん染み入るように理解できる不思議な文体で書かれているのですが、今回もその文体は健在です。いつも大変無骨な文章を書こうと努力している僕からすれば、その流麗さは非常にうらやましい。ああいう軽みが僕にもあったらよいのですが…。「疵」の項では『大航海』が初出のSMに関する記述もあり、この部分が僕としてはもっと惹きつけられました。わたしとわたしでないもののあいだをたゆたうこと、境界の侵犯としての皮膚表面への折檻。うーん、巧みだ。
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2006年08月07日

『マンガ学への挑戦』

夏目房之介さんの『マンガ学への挑戦』を読む。マンガ学の古典的名著です。

マンガ批評に関して、マンガの置かれているコンテクストをトピックごとにきれいにまとめてくれているので、自分に関心のある章ごとにも読める、ということでまさに入門書的な意味を持っています。僕はもう少し表現論的なものを想像していたので、意外でしたが、ある意味表現論的なものを求めてしまっているのは世代的な要因が大きいのかもしれません。

僕はマンガはほとんど読まないので、マンガに関してわかったような「社会学的」発言をするのは避けようと思います。が、形式論、表現論には知的な興味がある。もちろん次には
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『マルティン・ハイデッガー』

ティモシー・クラークさん作、高田珠樹さん訳の『マルティン・ハイデッガー』を読む。現代思想ガイドブックシリーズの一冊。

西洋哲学を支配する製作主義的な思考を徹底的に破壊するために、芸術を持ち出し、あるいは言語に対する考え方を一変させたりし、自らの思考を作り上げた思想家、という立場からハイデッガー思想をまとめた作業(という風にあえて製作主義風にまとめてみました、その方がわかりやすいと信じて)。ハイデッガーが何をしようとしていたかが一発でわかる、という点で、入門書としては最適かもしれません(ドレィファスの本を読んでいないので実はいい加減なことを言っているのですが)。

いつも思うのですが、訳者が訳注として本文への突っ込みをしている本は信頼できます。今回もそうですね。特に、現代思想ガイドブックシリーズは取り上げられている思想家にべったりな本と批判的な本と両極端なので、前者の場合は訳者に身を引き剥がしてもらえるととても楽なんです(なんて受動的な!)。ということで、読みやすく楽しめました。
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『カントの哲学』

池田雄一さんの『カントの哲学』を読む。道徳の系譜シリーズの最新作。シニシズムを超えて、という副題の通り、カントのアンチノミーが引き起こしてしまうシニシズムに対して、現代思想の議論なども交えつつ論じる力作。この方は文芸評論を専門とする方のようです。

結論が、というわけではないのですが、最終章でサイボーグが持ち出されるのに既視感がありました。もちろん、カントとサイボーグを繋げる話は今までにはないと思います。ただ、「サイボーグ的な生を肯定せよ」という結論(とは必ずしもいえないが、そう読む可能性を残す)の本は、結構あるんですよね。そんな中で一番面白いのは同じく道徳の系譜シリーズの『生殖の哲学』なんですけど(しかしこの本にサイボーグが出てきたか、実は覚えてない…)。ただ、シニシズムへの抵抗としてサイボーグを持ち出すとしたら、これは結構面白い。シニシズム自体が僕にとっては新鮮にうつったのかもしれませんけど。ということで印象批評を避けるためにインターテクスチュアリティっぽくまとめてみました(嘘です)。
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2006年07月21日

『ラディカリズムの果てに』

仲正昌樹さんの『ラディカリズムの果てに』を読む。

仲正さん、よほど左翼が嫌いと見える。もうそれはわかりましたから、そんな人たちの相手をしてないで、もっと別のことをしてください、というのが感想かな。仲正さんは具体的に誰かを念頭において反論してるのだろうが、僕はそんなに手広く「論壇」のことを知らないので、何をたたいているのかがいまいちつかめない。

ああ、ロマン派の話とかもっとしてほしいなあ、仲正さんには。
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2006年07月14日

『棗椰子の木陰で』

岡真理さんの『棗椰子の木陰で』を読む。岡真理さん、久々の単行本です。

おそらく岡さんというのは、出会ってしまうこと、というよりも岡さんの感覚では出会い損なってしまうことにとても感受性が強くて、そのことについて書かずにはいられない人なのだと思います。そして、その思いがあるから、文体は何事か(例えば文学作品)を読むことを超えて、時に大変素朴に何事かを語ろうとする独白のような形として現れることになります。その瞬間をつかまえることこそ、この本を読むということが一つの経験として自らに根を下ろしていくことを可能にするおそらく唯一の条件なのです。共振しつつも共振し得ない立場性にとどまること。およそアカデミックな冷静さを欠く読み方こそが、もっともこの著書にふさわしいのかもしれないな、と考えてしまう、そんな本です。
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2006年07月11日

『希望について』

立岩真也さんの『希望について』を読む。待望の立岩さんの新刊です。

方々に書いた文章を一つに集めたもの、ということで、同じ主張が何度も繰り返されている、という点は確かにあるし、立岩さん自身自覚的にそのようにこの本を編んでいます。だから、立岩さんの本をよく読んでいる人には既視感のある文章ばかりだと思います。

それでもなおこの本をみんなが読むべきだと僕が思うのは、この本には『社会学評論』に掲載されたあの「社会的」という論文が所収されているからです。この論文(というかそれの載った『社会学評論』の特集号)はかなり密度が濃くかつおもしろいもので、あの号に載った文章が一般に読めるということはそれ自体ラッキーなことです。とにかく読むべし、読むべし。
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『(みえない)欲望に向けて』

村山敏勝さんの『(みえない)欲望に向けて:クィア批評との対話』を読む。おまえはまだ読んでいなかったのか、という突っ込みはなし(汗)。

クィア批評に関してはおそらく日本でもっとも力のある方による単著。読んでてぐいぐいひきこまれました。もちろん僕が門外漢だから新鮮に見えた、というのもあるのだけれど、それ以上に心の繊細な揺れ動きを実にうまく押さえて、「読むことの快楽」を引き出してくれることに感銘を受けました。

と同時に、クィア批評でこういうことができてしまうと、社会学でわざわざゲイとかクィアとかをやることに対して、きちんとしたスタンスを持っておかないといけないな、と思うのも事実。社会学者は「異性愛制度」とか簡単に言ってしまって、擬似システム論的な話をしてしまうので(これはほとんど僕のことです)、本当に取り組みたい心の微細な動きをどうにも取り逃がしてしまうところがあるのです。社会学はそれを対象にしないから、と開き直るのも結構なのだけれど、僕はもう少しくいさがって、不遜ながら村山さんが丁寧にやったことに匹敵するものを社会学の側でやれたらな、と思ったのでした。

全く関係ないが、セジウィックを読んだ第一章は、ゲイ・スタディーズの専門家なら絶対に読むべきだと思う。クィア批評がどの方向にどこまでいけて、こまでしかいけないかを端的に読み解いてみせる、わかりやすい章です。
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2006年07月02日

『日本という国』

小熊英二さんの『日本という国』を読む。よりみちパン!セシリーズの一冊。いやあ、小熊さんの本にしてはテキスト量が少なくて助かります(笑)。でもシリーズのほかの作品よりはやっぱり厚い。

内容は、明治時代と第二次世界大戦後の日本に絞って、今の日本がどのような政治力学の上に成り立っているのかを明解に説明するもの。引用も最小限に抑えて、コンパクトにまとまっていると思います。ある意味「民主と愛国」の助走本みたいな感じになってますね。

政治上の見解とかによってこの本をどう評価するは分かれると思いますが、読むに値する本だと僕は思います。

ところでブズーキって何?
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『近代・組織・資本主義』

佐藤俊樹さんの『近代・組織・資本主義』を読む。「日本型近代」なるものを簡単に西洋の焼き直しととらえず、もっと正確にそれが一体何なのかを画定するために、西欧近代の再考から始まって日本文化論へと帰着する大作。

この本を読んで友人と語ったことなんですが、「博論ってぬかりがない」です。細かい穴が全部きちんと埋めてある。だから文章に生半可な気持ちでは太刀打ちできないと思わせる強さがあるんですよね。自分の論拠には弱いところがある、って自覚しているとどうも筆が控えめになるんですが、それがない。うーん、博論ってすごい、っていうのが正直なところです。

さて、西欧近代や日本近代そのものに関して必ずしも詳しかったり興味があったりするわけではない僕にとって、一番興味深かったのはホッブズ問題に関して述べた第3章。特に134-135の記述のしかた(ある社会がホッブズ問題をこうした形で考えているという事実自体が、その社会に関して決定的な何ごとかを語っている)には、思わず「やられた!」と感じましたよ。このひねり方は強力だなあ。
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2006年06月26日

『嗤う日本の「ナショナリズム」』

2005年3月19日にブログ投稿しているのですが、再読したのであえて。

今読むと05年の僕の読みはなかなかに浅かった、というか、『責任と正義』を読んでいるのに両者をうまく組み合わせて読み込めなかったのが悔しい。

「ナショナリズム」そのものが問題なのではない、ということを北田さんが示していることすらちゃんと読めていたのか疑わしい。だから前の投稿では「やっぱりナショナリズムが気になる」というコメントをしたわけですし。

それらの本筋に関する議論とは別に、僕もずいぶん北田語を読めるようになったなあ、というのが大変下世話な感想。ちゃんと読めばわかりやすく書いてあるんですね。これでも僕、成長してるんだなあ。

と全く臆面もなく「自己肯定」するあたりが、なんとかして北田さんの議論に飲み込まれまいとする僕の最後の抵抗でしょうか。特に意味、ありません。以下は2005/03/19に書いた投稿です。

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2006年06月25日

『社会学のおしえ』

馬場靖雄さんの『社会学のおしえ』を読む。

行為の諸類型とシステム理論を割りと無媒介につなげてしまう社会学の概説書、ということで、もしかしたらシステム論界隈では(馬場さんはルーマンの研究者です)評判がよくないのかもしれませんが、僕は大変面白く読みました。段落ごとに注がはさまれる形式で、その注の突っ込みぶりが大変笑える。北田さんよりも前に出てきた「元祖突っ込み社会学者」だと僕は勝手に命名しておきます(笑)。何より1997年段階ですでに同性愛者にここまで対応できている硬い社会学者がいたことが感涙に咽ぶ感じです(用法不適切)。

現在絶版ですが、図書館などで探してぜひ読んでみてください。
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『制度論の構図』

盛山和夫さんの『制度論の構図』を読む。

「秩序問題」という社会学(あるいは哲学?)に古くからある問いにどのように答えるか(さらにはそれをどのように問い直すか)をめぐってなされる緻密な考察。有名な一次理論/二次理論という用語もこの本が初出なのでしょうか。

個人的に面白いと思ったのは第5章から第6章にかけて。特に、規範とは何でないのかを丁寧に追う第5章の議論をきちんと咀嚼できれば、もはや論文の中で規範という言葉を使ってもよいような気がする、そんな整理された記述に感銘を受けました。

その一方、なぜ当の社会の中にいるはずの社会学者が一次理論でなく二次理論として理論を記述できるのか、に際しては、その視点が仮想的であると言及し、本当に二次理論の形成が可能か断言する必要がない、とされています(p.195)。ここにはなかなかに深刻な問題が隠れているのでは、と思いました。仮想するに値するとは思うのですが、その仮想の仮想性を根拠に自分の二次理論に反論された時、再反論するための根拠を何か持っておきたいのです。多分ここには「制度」や「システム」をそれとして同定することがいかに可能か、という社会学にとって最も重要な問いが潜んでいるのです。
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『性同一性障害の社会学』

佐倉智美さんの『性同一性障害の社会学』を読む。

トランスジェンダーの方が書いた本で、初めてかつ唯一ゲイが読んでもカチンとこない良書。トランスジェンダーの人って往々にして「私は心が女性で男性を愛するんだからホモじゃないのよ」的な発言、しますからねえ。その意味で、不遜にも言わせてもらえばはじめてトランスジェンダーの方が書いたものでそれをまともに論じたり批評できたりするようなレベルの作業がなされた、と言えると思います。もちろん、当事者の手記で共感できるもの、納得できるものは今までもあったのですが。

ただ、どうにも当事者が書いたエッセイないしレポートを超えて「社会学」と言えるものなのか疑問…と思ってからはたと気づいたのだが、これは僕の研究も同じですね(汗)。妙なところで問いを共有してしまうのですが、セクシュアルマイノリティに関する、映像や文字テクストを使わない議論はなんでも社会学になってしまうし、社会学と呼ぶしかなくなるんですよね…。多分佐倉さんも僕も大学院の議論では表面上はきちんと他者から応答がなされつつも、どこかでその他者は「これのどこが社会学なの?」と思っていると思うんですよ。まず十分に「一次理論」が掬われていない事情を考慮して一次理論に漸近していくことによって、その営為がますます「二次理論」から離れていくという隘路がそこにはあります。そこで「自分のやっていることは二次理論です、と言えるのは一次理論に誰もがすでに接近可能で、そこからの差異化が容易に観察される領域の特権であって、決して研究者の能力ではない」とイデオロギー的に批判してもよいのだけれど、こちらの側でも何か言えることはないか。少し拘泥してみたいと思います。
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2006年06月17日

『病いの哲学』

小泉義之さんの『病いの哲学』を読む。

安楽死や尊厳死を妙に急いで実現させようとする動きの気持ち悪さに対して、哲学史を大胆に再構築することによって抵抗してみせる力作。プラトン、ハイデッガー、レヴィナスを死に淫する哲学として批判する一方、パスカル、ナンシー、パーソンズ、フーコーをそれ抵抗する病の哲学として救っていこうとする図式は大変新鮮。

そして社会学者の卵にとってもっとも面白かったのはパーソンズを扱った第5章。有名な病者役割の議論を、ここまでわかりやすくコンパクトに、しかも面白く扱った人はいないかも。病人が立ち現れることの奇妙さ、を言うところなんか、絶妙だなあ。

ということで、普通の哲学史に飽きた人も、安楽死や尊厳死を深く考えたい人も、読むべき本です。
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2006年06月10日

『「私」のための現代思想』

高田明典さんの『「私」のための現代思想』を読む。高田さんの本は初めて。

うーん、やりたいことはわかるんですが、あんまりぴんときませんでした。これって結局、その人にとっての正しさを軸に、それが他者と必然的に関係していることを説得することによって、むしろその人にとっての正しさから自殺(の多く)を思いとどまらせる、ってことですよね?だとしたら前半部分はもう少しすっきりと短く書ける気がする。

あと、日常語に山カッコとかをつけているのが、意外と難しい。むしろ「超越確実性言明」とか言われた方がよほどすっきりとわかる。とはいえ、図が大量に盛り込まれているので、それで十分に理解はできるようにはなっていますが。

もしくは、きちんとこのことを言おうと思ったら、裏『責任と正義』のように、相当な分量でもって何事かを書かないといけないのかもしれない。

全く関係ないことですが、ゴフマンの用語として何よりもまず「共在」が出てきるのが興味深い。普通は「役割」ですよね、やっぱり?